二〇一八年四月二十二日、詩人・藤原安紀子さんの呼びかけで東村山市にある国立ハンセン病資料館(多摩全生園跡地)を訪れた。
ハンセン病——古くは侮蔑の意を込めて「らい病」と呼ばれた病——について、まったく知らないわけではなかった。少なくともそういう思いが胸にあった。高齢の人びとが集団訴訟をたびたび起こしていることも見聞きして知っていた。国を相手どった賠償を求める闘争であるから、それは水俣病に代表されるような過去の措置を巡る糾弾にちがいない、とも思っていた。
いま思えば、恐ろしいことにわたしのなかではそれ以上でも以下でもなかったのである。それは日常過ごすうえでひとの痛苦を引き受けないでいられる、いわば「他人事」でしかなかった。
間抜けなことに、少しはさまざまに目配りすることに自覚的なつもりでいた。少数民族問題、被差別部落問題、戦争時における日本の侵略行為、といったことが思いつくだけでもわたしの口からはぺらぺらと上がりもする。だがそれは、これまでにすでに目を向けられた、有り体に言えば「氷山の一角」の見えている部分であることがわかっていなかったのである。水面下の巨大な氷塊に思いを巡らす想像力を決定的に欠いていた。そう気づかされたのは、ハンセン病資料館に展示されていた惨劇が日常的であったことを示す、なまなましく開いた傷においてだ。
家から引き摺り出されたとき、もう二度とこの故郷の地を踏むことはないとわかった、と語る生存者(サヴァイヴァ)の証言。また、自分を矮小化してしまったひとの振る舞い。後者については写真家のチョウ・グンジェが撮影記として残している。患者が集団生活する場に訪れたチョウに対してある男性はうろたえ、そして、社会の人が来るなんて知らなかったもんで、こんなみっともない姿を見せてしまって、ほんとうに申し訳ない、恥ずかしい、という言葉を繰り返して何度も頭を下げた、とチョウは書いている。
彼も「社会の人」であるにも関わらず、「社会の人」が忌み向ける蔑みの眼差しを内面に織り込み、みずからを醜恥と位置づける姿は痛々しいという語以上の余りあるものだ。生きていく上で引き受けざるを得なかった、引き受けさせる環境を作った圧力、外界から隔離される暴力に対する、自然に身についてしまった防御。
穏やかに花が咲き教会も寺も運動場もありながら、同敷地に監視塔、独居房が混在する場所。ときに園内のほうが快適で迷惑をかけないからと嘯き、ときに急襲して無理やり引き摺り出して多くのひとの一生を奪った場所。
あらゆる残虐な犯罪によって重ねられたさまざまな容赦なく傷をつけられた、まごうことなき事実。眉をひそめて考えている真似事をしていたに過ぎない少し前までのわたしは、いま思うといかんともしがたい。だから上の日付は「知る」ということの痛苦を引き受けることをおそらくはじめて経験した忘れられない日付である。
顔を背けるのでも美談に仕立てるでもなく直視することを通して、詩という形でドキュメントを記録しようと思います。すべての被害者のこころの平穏を祈りながら、この冊子を発行します。
記 奥間埜乃
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