すなわち、ここでは、自我は、それ自身の受動性によって、それのもっとも固有の感受性によって凌駕され、乗り越えられる。しかし、自分のものではなくなり、脱主体化されたこの存在は、自己自身のもとへの自我の極端で執拗な現前でもある。あたかも、わたしたちの意識がどこまでも崩れ、こぼれ出ていきながら、それと同時に、さからえない命令によって、自分の崩壊に、絶対的に自分のものでありながら自分のものでないものに、いやおうなく立ち会うよう呼びつけられているかのようである。すなわち、恥ずかしさにおいて、主体は自分自身の脱主体化という中身しかもっておらず、自分自身の破産、主体としての自分自身の喪失の証人となる。主体化にして脱主体化という、この二重の運動が、恥ずかしさである。
(ジョルジョ・アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの』)
vol.2 ポリフォニック・オーケストラ…
夜や夜の沈黙であるとしても、何かが生起している。この「何かが生起している」の不…
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